昭和45年9月25日 朝の御理解
X御神訓一・わが身はわが身ならず みな神と皇上との身と思い知れよ。
わが身はわが身ではない。云わば子供は親の体の一部だと。いわゆる私共は天地金乃神様の分け御霊だと、ゆう風にも言われます。 神と皇上との身と思い知れよと、ここにあります。
神とは神様の神、皇上かみとは皇上と書きます。安政ふっけいの天皇を現人神と言ったような表現をしました。それはそのご先祖に云われる、天照大神、天照大神に帰一するという事だと思うですね。
ですから煎じつめて参りますと、いわゆる天地金乃神様と言うことになるんじゃないでしょうかね。そういうひとつの字句の解釈というのではねくて、わが身はわが身ならずと。
私共は、いわゆる親神様のいわゆる御分体、親神様のお体の一部だと。それは肉体を持っておる親と子の仏も子供は親の一部分だという風な頂き方。それはそうですねぇ。子供が病気をしとりゃ、苦しんでおると親はもう自分が苦しんだ方がよいように思います。子供が難儀をしておれば、親は自分が難儀したがよいように思う。
それかと思うと又、親のは子薬、子は親薬と言うようなものが親子の中には有ります。例えば親が病気をしておる、遠く離れておった子供が帰ってくる。「お父さん、いま帰ったよ。」と、例えば枕元で親に言うと致しましょうか。もう瀕死の重態といった親でも子供が帰ってきたというたらもうどんな注射より、どんな薬よりも、それこそ効いたように喜ぶ。
これは又それと反対の事を言うても同じこと。親は子薬、子は親薬です。
そういう不可思議な関係にあるのが、天地金乃神様と私である。又は親と子であります。ここはもう、だから理屈ではない。そうひとつ頂いて次の私が申しますことを聞いて頂きたいと思います。
例えばその親がね、あらゆるものの全てを持っておる親と致しましょうか。
それを例えば子供がこう云うようなことで必要だから、それを下さいと云うことになったらそれが必要であると親が認めたら、それをたくさん持っているのですから。子供の願いを聞き届けてくれるだろうとおもいます。
場合によっちゃそげにゃいるまいと思うけれども、例えば小遣いなら小遣いを下さいとこう云う。一万円下さいとこう云う。まあ親は五千円でよかろうと思うてもです。たくさん持っているのですから、無駄なことには使うなよと言うて一万円くれる。あれが持たない親ならばそんなことは出来ません。限りなく持っておる親であるとするならば、私はそうだと思いますねぇ。子供が願えればそれに答えてくれる。
もう親父がその日その日のやっとかっと生活していきよる。それに子供が金をくれ、ものをくれを言うなら、それは出し渋りもすりゃ、やりもせんでしょうけれども。限りなく持っておる親と仮定いたしましょう。他の者の願いじゃない可愛い子供の願いですから聞き届けてやりたいのが親心。
天地金乃神様はそれこそもう限りがない。無尽蔵に持ってござる全てのものを。云うなら人間が幸せになっていくことの為の全てのものを握ってござるという神様。しかもそれはもうとてつもない大きな神様。
その神様とわが身はわが身ならず、その神様と私共はね、一緒だと、親だ子だと、こう言うておられます。その親に子供が願うのですからね、下さらんはずはない。
そこでね、天地書付を改めて頂き直したいと思うのです。生神金光大神 天地金乃神 一心二願え、と有ります。
生神金光大神 、いわゆる教祖金光大神様の云うならば教えて下さったこと、そういう例えばおかげの受けられる道と教えて下さった方、その生神金光大神 に願え。一心に願えと、生神金光大神 天地金乃神 一心二願え。
そこでね、その次にはどうかと言うと、生神金光大神 天地金乃神 一心二願え おかげは和賀心にあり 今月今日で頼め、とこう。
そこでさっきの、親と子の関係ではないですけれども、限りなしに持ってござる方、その方にです、いわゆる一心に願う、その一心に願うと言うことが先なんだ。
どうぞおねがいします。例えて言うと、これを分かりやすく言うと、人間関係の上でもそうです。お願いをする、親に願いをする、お前はもういらん事ばっかり使うからやらん、とこう言う。いいえ今度はもういらん事には使いません、と言えば、もう本当にそうかと確かめたら下さる。
おかげは和賀心にありと、和らぎ賀ぶ心になることにつとめます。だから下さいと、だから下さいと言うのが先だ。
一心に願え おかげは和賀心にあり、私共が例えば、私が二十年間おかげは和賀心、この和賀心と言うことだけに焦点を置いてきた。信心とはもう限りなく本心の玉を研いていくものである。信心とはもう限りなく、その日その日改まっていくことであり、云うなら問題の全ては汚い心が問題を作るのであるから、限りなく美しゅうなろうやということを。云うならば二十何年間云わば、そのことに焦点を置いてあらゆる角度から教えを頂いてきた。
信心とは、そういうものだと。最近ここで云われておる願いの信心ということ。願う、おかげを頂く、その頂いたおかげの為に難儀をする、苦労をする、と言ったような事では困る。
金銭のことを願う、なるほど、願い通りに、又は願い以上におかげを頂く。金銭のことではおかげ頂くけれども、人間関係のことでその人間が苦しんでおったらこれはつまりませんものねぇ
そこでです、おかげを頂いたことによって、いよいよ幸せになっていけれるのは、私共がね、いわゆる和賀心と云うものを和賀心にならして頂く事に精進することなのです。
願ったことが成就する、その成就したことだけではね、人間は幸せにならんのです。例えば病気をする。おかげで病気がなおった。病気が治っただけでは幸せになれんのです。
昨日四時の御祈念させて頂いて、終わらせて頂きましたら、むつやの信司さんがお参りして来ております。それで私は信司さん、もうそれこそ何でもかんでもひとつ願わにゃいかんよ、一心に願いなさいと。あんたの場合例えばあんた自身も最近熱心にさせて頂くようになり松栄会の一員としてここでおかげ頂いて松栄会の云うなら精神であるところのです、ことそれが神様の御事柄であるならばです。それこそ身を挺して神様の御用にも立たせて頂こう。まあ云うならばです、パラシュートを抱いて飛行機上から飛び降りるくらいの元気な心がなければ出来んぞと、云うようなことを厳しゅう稽古していきよる。まあ松栄会の方達派そう云うところ、焦点を置いておる。
例えばさあ御大祭だ、霊様のお祭りだ、と言う時にはもう前日からみんなが、その準備の為でてきておる。この間のお祭りの時でも、午後からはみんな白衣に着替えて神殿、霊殿、内殿、外殿の清掃にあたっておられます。それこそ身を清めて心を清めてそういう事にあっておられます。
もう今日は忙しゅうございますけんなんて、言い訳をするものは一人もおらん。
それはやっぱそういう位な勇気が要りますよ。むつやの信さんなんかは丁度何でしたか、展示会があっとりました。けれども例えばそんなことは中心である、主人である信司さんがここへ出てきて御用を頂いとる。
云わばその位な元気、勇気、やはりなかなかそれこそ飛行機上から飛び降りるというのですからね。必ずこれは開くと云うことは分かっておってもです、なかなか勇気の要ることだと思うんです。信心ちゃそうなんです。絶対なものなんですよ。そこんところをしだごだにするからおかげがしだごだになるだけなんです。
それだけではない、あんたんところの云わばおかあさん、田代のお母さん、石井清子さんと田代佐恵子さんのこと、それこそ身を艇にしてあのような云うならば信心をなさった方達があんたの先祖にはあるのだ、あれだけの云うならば信心のひとつの基礎とか、基本というものを作っておられたのだから、あんたはもうどげな事を願ってもおかげになるよと。それこそ何でもかんでも思いで願いなさい。願うからには頂かにゃならん。それには只お取り次ぎを頂いてお願いしますと云うだけでなくてそれこそ一心不乱に願いなさい。とまあ云うたことでした。
お取り次ぎを終わってからね、いよいよ本当に合楽の信心は有り難い事になってきたもんだなと。云わば願いの信心と云うことはもう信心の最高峰です。信心のやっぱり祈りの内容というのはやっぱりお礼とか、お詫びとか云われとります。
けれどもね、もう願うと云うことはね、もう信心の最高峰の、最高峰の信心だ。それも只、なぁにもなしに、只頼みます、願います、と言うだけじゃないです。その為の云うなら基礎と云うものが二十年間の間にできておる。
だから信心とはこう云うものだと。只、頼みさえすればおかげが頂ける、というのではなくてですね。その基礎になるものが云うなら、和賀心、その為には改まっていくことが信心であり、研いていく事が信心であり。
ところがなかなかそれがですね。完璧と云うような事は出来ないに致しましても、願わなければならない事はたくさんある。そこで願う、いわゆるわが身はわが身ならず、いわゆる神様のお体の一部分であるところの私達という、そういう一面に立って出す、思うてみるとその辺が分かる。
しかもその親神様というのは、無尽蔵に限りなく全てのものを例えば所持しておられる方が、その方に子供が云うならば、願うのですから下さらんはずはない。
しかも最後のところの、生神金光大神 天地金乃神 一心二願え利根が兎事が先なのだ。
けれどもその次にはどう云うておられるかと云うと、生神金光大神 天地金乃神 一心二願え おかげは和賀心にあるんだぞと。
ところが実際まだ和賀心ではない。今月今日で一心に頼め。もうその事はよく分かっとりますと。今ここに和賀心にはなっとらんけれども、必ず和賀心になる事に精進いたしますという一冊を入れて、願うからおかげになる。
それは先ほども申しましたように、子供が親に願う。「あんたばっかりは私が云うことはひとつも聞かんじゃないか。」「いやこれからは聞きます。」と云えばおかげをそんならと云うておかげを下さるのと同じ事だ。
ですからそれがその、これからは聞きますからということがです、もう和賀心になることに精進しますから、ということが、だから嘘であってはならないです。それが信心の基本なんです、本当云うたら。
けれども私共は願わなならない事があまりにあるという事、人間は。
だからその願うという事は実を云うたら親子の仲であるから、ひとつ不自然ではないという事。その事を分かる為に、私共は二十何年間一生懸命、和賀心を勉強してきた。信心とはこれだと。
信心とはおかげを頂くという事じゃない。信心とはこれだと云うこと。出ないと頂いたおかげが死んでしまう、折角頂いたおかげが云うならばかえって災いの元になることすらある。
例えて云うなら、お金をたくさんおかげ頂いて儲けだしたらそのお金の為に不良の子供が出来たり、お金の為に自分自身がとんでもない事にお金を使ったりして、苦労を作っていくという結果になる。
だからそれがならん事のために、私共は和賀心のしたいと思う。
信司さんが帰ってからここで本当にいままでは、和賀心 和賀心 和賀心さえなりゃ願わんでも頼んでもおかげを下さるんだと、成る程二十年間おかげを受けてきた。
ところが最近合楽で云われておるように、世のお役に立ちたいという、そういう一心が段々私共の心に育ってきた。もう二十年間も信心させて頂いて云わば子供ももう二十歳になった訳なんです。
云われてから二十年間たっておるうちにです、只これは、只願わんでも頼んでもおかげが頂けるという、安閑とした事ではいけない事に気付いてきた。世の為、人の為、云うなら世のお役に立ちたい、立たなければ相済まん、という事になってきた。
それで世のお役に立ちたいの一心というものを出させて頂いたら今までのように、例えばその日暮らし的なおかげとでも申しましょうか、必要なものが必要に応じてだけではいけなくなってきた。云わば必要以上にここに頂かなければ世のお役に立てないことが分かってきた。
力も必要以上に力を受けたい。経済の上にも必要以上にゆとりのあるおかげを頂きたい、そこに始まるのが願いである。そういう例えば願いを立てよ、願いに徹せよという事になってきた訳なんです。
だから願いの信心が最高峰だと云うことが分かるですねぇ皆さん。我情我欲を満たす為に、自分が贅沢をする為にお金を下さいというのは駄々目が違う。
どうぞ長生きをさせて下さい、世のお役にたちたいの一心が長生きをさせて下さいという事になるのだから。
今合楽で云われておる願いの信心というのは、成る程信心の最高峰だと云うことがわかります。
生神金光大神 天地金乃神 一心二願えと。一心に願うことを、先に教祖様がおっしゃておられる訳が少し分かってきた。只けれども願いだけではない。おかげは和賀心にあり 今月今日で一心に頼めいと。
おかげは和賀心にありと、それから先のおかげなんだ、和らぎ賀ぶ心、それが人間の幸せ、幸福を約束するものは心以外にない。それを今月今日只今を、願っていけと、今月今日で一心に頼め、一心に頼み参らせる事はその事なんだ。
それは私共がいよいよ幸福にならせて頂くことの為に、これだけは願わなきぁいかん。和賀心になると云うことは。そこに先に願った一心に願えという願い、そしておかげを頂くそのおかげが生き生きと生きてくる訳なんである。
それを例えて私が申しました、願いを先に、先にしなければおられんのが私達なんだ。私達は何も持たない、だから神様に願うより他にない、親に頼むより他にない。
親に頼む。親は限りなしに持っているのであるから、筋道さえ立てば云うならば、たくさん持っている、腐る程持っているのだから、やりとうてむずむずしている、親の方は。
それでもやはり親は念のために無駄遣いどもするなよと、いや決して無駄遣いは致しません、という一冊が入る。
もう和賀心を焦点に一生涯、ここの所に焦点を置く事は変わりはない。そんなら現在、和賀心になっているとは思われないけれども。
皆さん、そういう意味に置いての願いの信心というのが、最高峰だと云うことが分かり、これはおそらく私が一生涯このことに取り組んでいく事であろう。私は夕べも皆さんに申しましたけれども、おかげの泉が今度で十三集が出来ます。一番最後の十三集はこの頃の十三日会の時の教話が今度出ることになっております。その十二集までの事をずっと読んでおって。
そこでね、これからは信心をさせて頂く、いわゆる元を取って道を開く者は、あられぬ行をするけれどもと、おっしゃるが皆さんの場合なんかは、私と一緒にそういう、和賀心和賀心と、和賀心を求めての信心をなさって非常に、そこに修行してきたことになりますね。
ですから、これからの人達はですね、その願いに立つと云うことは、どういう事かと云うと、私が二十年間説いてきた事が御理解集が残っとります。だからそれを一辺通り読むだけでいいわけです。信心とはこう云うもんだという事を。
というてあの莫大な二十年間説いてきたというものを読むという事はなかなか難しい。かかればかかれんこともない。
けれどもあの十二冊という今まで出たおかげの泉の十二冊をです。一辺、熟読する。それの中にはね、もう大体信心の全てが出てきておる。あのたったの十二冊の中に。
これはこれが今後、合楽のこや、これからのおかげを頂いていこうとする。これは金光教だけじゃないですよ。頂いていこうとここに願い出てくる人達のひとつの聖典になるものだと。私は思うです。
だから私は昨日は家内にも光昭にも、修行生の方達のもこれは一冊ずつ必ず自分の物として持っておけと、そしてこれを熟読して、たったあれだけの本だからどこを質問されてもすぐ答えが出るくらいに熟読せよと。
だからこれからの人は楽ですよね。あれが基点になるのですから。いわゆる基点というのは基調なんですね。願いの信心にいわゆる一線上に出ろと、いわゆる十三日会の時云ったのはそのことなんです。
テレビよくやってますねぇ「押せば命の泉わく」と、私はこれからの合楽にはどう云うことが言えると云うとね「願えばおかげの泉わく」という事になってくると思う、願えば。
だから願わなければ泉は湧かん。押さなければやはり命の泉が湧かない。というように合楽では願わなければ本当にこんこんとして尽きぬおかげは湧いてこないと云うことです。
お役にたたして頂ける程しのおかげがこんこんと尽きぬおかげになって、現れて湧いてくるようなおかげを頂く為に、やはり願って願って願いぬかなければいけないという事です。
私自身は、私が毎日話した事がそのままそれを何回読ませて頂いても、都度都度に有り難いものを感じる。これが信心のなる程、基本になるものだなぁと思う。
その上に今度の第十三集からガラリと変わった。願いの信心になってきておる訳です。何故願わなければならないか、願うと云うことがどうして神様がお喜び下さる事かと云うような事が、ま、せいぜんとは思われませんね。本当な分かられたいばっかりにいろいろな表現をしとりますから、非常にわかりにくい、分かりにくいもの。それをひとつ熟読して分からなぁいかん。
例えば、わが身はわが身ならずという、今日の御神訓を今日はですね、わが身はわが身ならずという事は親と子の関係に於いて、今日はここの所を頂きました訳なんですよね。
親だもの、子だもの、子どもが難儀をしておれば親の難と同じことなのだ、その難儀をいている子供が親に願っているのですからね、親が知らん顔もしとくはずがなか。なぜってその親は限りなく全てのものを所持しておられるおやなのだから。
けれども損ならその親でもです、そのやったおかげによって子供が尚、又、苦しむことの為にはやらない。
そこで今月今日で一心に願わせていただく事をもう神様が聞き耳を立てて下さろうとゆう心を作って下さる。おかげは和賀心にあり 今月今日で一心に頼め、おかげは和賀心にあり。
だから後半のところをです、必ず言うことをききますとか、和賀心になることに焦点を置きますとか、いえ信心はもうそれが土台になるそのなることはよう承知しました、わかりましたというところから。おかげが、だからそういう心の状態になる事が後からであって、願っておかげを受ける事が先だと言うことになる。ところがそこんとこをです。例えば余りに簡単にいきよると、言うことを聞きます、言うことを聞きますと言いながら、言う事きかんでかえって悪い道にども入っていっちゃぁ困るから。いわゆる和賀心に焦点を置いて、和賀心に精進させてもらう。いわゆる信心は日々の改まりが第一と言う事に、信心はその問題を通して本心の玉を磨いていく事だとして、おかげを頂いていく精進が、だから嘘であってはならないと言う事。それは後からであってもいいけれども。
それが完璧に頂けてから願おうなんて言ったって私共はね、一生涯出来る事じゃないです、実を言うたら。
だからここに二十年振りに例えばそこのところがわからせて頂いた。二十年振りにもう本当に信心ちゃ和賀心になるほかにないなあと思いこませて頂いた。と言うてそんならその和賀心がいつもかつも頂けるものじゃないと言う事。
だからここで願わなければ世のお役にも立てないと言う事が分かってきた。いわゆる願いの信心が最高峰だと思わしてもらい、信司さんが帰った後もここでいろいろ思わしてもらいよったら、御神眼に頂いたことは、『今の若い方達が髪を高く結うた髪があるでしょうが、パーマで。それが二段にも三段にも高くなっている感じ、あんまり髪が高くて大きいもんじゃけん、人間の方がよろよろするようなごたるところを頂くのです。』
いわゆる最高峰ですよ、髪は。髪は神、信心の事でしょう。ところが余りにも最高峰の信心をですね、頂いておるだけではね、そんなら人間が今のままでは駄目だと。いよいよ太くならにゃいかんということ。この髪に釣り合うたように太くならにゃいかんということ。
女ごは髪形と言ったようなことを言うが、いくら髪をきれいに結うたっちゃですよ、回れ右したときにレッテルの方が悪かなら、やっぱりいかん。そこでしょうが、いくら髪形が。
それは後ろから見るならこたえんごとしとるばってん、回れ右したら、エッ、というごたるのならいかんでしょう。
だから限りなく美しゅうなる事にも化粧することにも、一生懸命ならにゃいかんという。同時にこの高度な最高峰の髪を結うのですから、それにふさわしい太くならにゃいかんということ。
だから人間関係のほんな小さいことで腹どん立てよったんちゃぁ。この最高峰の信心に入っちゃいかれんぞと、このくらいの事がくよくよしたり、愚痴を言うたり腹が立つ位の事ではいけんぞ、それこそ図太い位に太うならしてもらう。
自分ではこれは横着なったんじゃなかろうかという位に太ならして頂くことに標準を置かなければならない事はまちがいない。そこが一番最後のところのおかげは和賀心にあり 今月今日で一心に頼め、という。それはもう後からでもよいから、一つおかげを受けてね。でなかったら今度はおかげの方がおおにしてからゆらゆらせなならん、体の方が。
だからね、もう、とにかくね、だからもう皆さんは今迄お願いしたけん、先生が笑い出しなさらんじゃろか、気の毒かと思うならね、ここで云わんでよかです。云うとがいかんならいわんがよかです。
どうぞ今日も願いの信心に、願いの信心に一生懸命にならして下さい、と言うだけでええです。そして御祈念をする時にです、もう誰にも云われん事を神様に赤裸々にお願いをしてです。
もうそれは私の最近の四時の御祈念は願いの事でいっぱいなんです。けれどももう一人一人の事を皆さんが願われる事を一人一人もう、噛んで含めるようにお願いしよります。
もうそれがね、神様が聞き届けて下さったと思わなければ、それを止めないという位に一生懸命にお願いしよります。だから急に願え願えと言われてこげな事まで願われんと言うのはね、先生が座ってござるから、そこのところに気兼ねするとでしょうが。
だから神様はそげな気兼ねはいらんです。御祈念するときに一生懸命願えばいい。それも何でもかんでもの願いに立たなければいけない。今日、金がどうでもこうでも要るなら、どうでもこうでもその金の事を願わにゃいかん。例えば主人のことでも、子供のことでも例えばそんなら家内のことでも、その姿そのものは例えば親の目に余る様なことを子供がしでかしたとするか、それはそのままが親の姿をして自分が改まるより他にない、とこれが元なんですよ。
けれどももうそれだけでは間にあわんて、だから私もあの子供の見苦しいなら、見苦しい姿がそのまま親の姿であると思うたら、そのことを親も改まっていくと同時にです。どうぞ子供が立ち直りのおかげが頂けますようにと言う願いのね、いわゆるそういう信心に立脚して願っていけというのです。
その願いを神様は全てを持ってござる親ですから、神様ですから、願えばおかげの泉が沸く様に、沸いてくるおかげに触れることが出来る。それが現れておらんならまあだ願いが足りんと思うて願わにゃいけんと言う事になる訳ですよね。
皆さんだからお道の信心の根本のところは、いわゆるわが身はわが身ならずであり、いわゆる私共は神様のね、いわゆる分け御霊、分身だとまず知らにゃいかん。だから私が親に願うのですから親が聞かんはずはない、と言う信心を持たなきゃいけんことです。
そしてどうぞお願いしますと、ちっと無理であってもお願いしてです、そのかわりおとうさん言う事聞くけんで、この次はこうもするけんでああもするけんで、と言うて約束して。それが嘘であっちゃいけませんよ、神様だまくらかすことになる。
だまくらかしよると一辺や二辺はだまくらかされよんなさったっちゃ、何辺でんだまくらかされなさらん、神様の方がそこに照準を。
けれども願うことが先だと言う事。今日私がいう。だから天地書付も新たな解釈ですよ、今日の御理解は。生神金光大神 天地金乃神 一心二願え、と言う事を先にいうておられるから、一心に願うことを先にせにゃいかん。
それを今日はもう信心の最高峰だと申しました。又そうです。又最高峰と確信されるところをです、精進していくと言う事はおそらく一生涯かかることでしょう。又和賀心にならせて頂くことも一生涯かかってこのことに取り組んでいくことであろうと思います。
おかげは願った、最高のおかげを願った、そして最高のおかげを頂いた。ところがあんまりおかげが大きすぎてから、ゆらゆらするごたることではいけんから、云わば太うなること。
太なりますと必ず太くなりますと、どげな事がおったちゃ腹を立てませんと云うように例えば願いの条件をしてです、お願いをするならば下さらんはずはないです、親ですから、持ってござるのですから。
だから天地金乃神様という方はね、もう、とにかく私共がどがしこ頂いても頂いても神様が困りなさると言う事では決してない。限りなく、それこそ泉のように湧くものを持っておられるのですから。
だから「おかげは受け徳、受け勝」と言った様な御教えがありますがです、私は最近それをね、もう、おかげは受けなければ損をするて。もう本当に受け勝だと私は思います、受けなもう。
中村さんじゃないけれども、お参りのし儲け、お供えのし儲けと言うようなね、感じがいたします。だからひとつそういう信心をですね、いわゆる願いのしんじんです。もう少し実感的に皆さんが云われる事はです、お取り次ぎを頂かなきゃならんです、頂にくいんじゃなかろうかと。
原さんじゃないですけれども、お願いちゅうたら声に喉が詰まったごとなって願いの言葉がでてこん。と云われるのは御結界でお取次を頂かねばならんから、ごくっとここにつまるのじゃなかろうかと思いますから、云わばこれは私が邪魔になっとる。そこで心の中だけでもよいから、御神前で一生懸命、金光大神のお取次を頂いて願いたいことはもう願い放題なさい。
そうするとですね、人間な欲張りなですから、だんだん力が出てくるです。願いの中に、とても一時間よりも一時間中願うごとなってくるんですから。
ところがね、それは成る程頂けるです。それではね、世の中のお役に立とうと云うことになってくるとよりですよ、より世のお役に立とうと云うことになってきておる。只、神様が黙っとっても下さるだけのお小遣いじゃ足らんと云うことなんです。だからまちっと下さいと言うて願わんならんことになったら、実際は神様はその願いを待ってござると云うこと。何故って世のお役に立ってくれる事を願ってござるからなんです。
世の中の難儀な氏子がもっともっと助かってくれる事を願っておられるからなんです。その神様の願いにピタッと云わば願いの信心というのはいわゆる親の、神の願いと、私共の願いがピタッといっちする事になってくるのです。
神様はね、限りなく持ってござる方だと云うことを、まず知らにゃいけん。しかもその神様と私共はいわゆる親戚付き合いでなくもう親子だという事。だから親子ですから、親子に何が遠慮が要ろうかというような思いで、遠慮なしにどんどん、どんどん願わにゃいかん。只、並べ立てるだけじゃいかん、うんと神様に云わせる迄願わにゃいかんということですね。 どうぞ